60年前にアメリカ向けに作られた奥原硝子製造所のカタログをもとに、限定復刻生産した美しい硝子瓶などが勢揃いしました。貴重な当時のサンプルや、原材料のジュース瓶、製作に使用する道具などとあわせて、美しい復刻シリーズをお愉しみください。
琉球硝子
約100年の歴史を持つ琉球硝子。現在の沖縄地方には、アジアとの貿易を通じて比較的早く硝子製品がもたされていたといわれています。その製造は明治時代中期といわれ、太平洋戦争前はランプの火屋(ガラスカバー)や薬瓶、駄菓子屋の角瓶などの日用品を主に作っていた現在琉球硝子と呼ばれる沖縄の硝子も、戦後はアメリカ駐留兵からの注文や基地内での販売、アメリカへの輸出と、戦前より作るものの形や、色、サイズが多岐に渡るようになりました。
奥原硝子製造所と再生硝子
奥原硝子のルーツは戦後にまで遡ります。沖縄に駐留する米軍の家族は日本人と違って、ガラスを器として多く生活に用いていました。奥原硝子にも同様の注文が入るようになったものの、沖縄は資源が乏しい土地柄。硝子の原料が手に入らず、さらにどんなものをつくればよいのか、当時の日本には見本となる硝子の器がありませんでした。
そこで、奥原硝子の創設者、奥原盛栄氏は 硝子の原料として米軍が捨てたコーラ瓶やビール瓶、あるいはワインの瓶を利用し、それらを砕いて再生し、アメリカ人が主に使っていたメキシコ産の器を真似ました。
こうして奥原硝子が米軍相手に再生硝子で商売をして、軌道に乗っていた頃、益子の陶芸家、濱田庄司先生が来島の時、再生硝子に目を留め、本土の各民藝店に沖縄の硝子の良さを伝え、沖縄の硝子は日本各地に広がっていきました。必然的に沖縄での硝子の生産量は増え、いつの間にか壺屋の陶器、芭蕉布と並ぶほど、硝子が沖縄の名産として全国に知れ渡ることになりました。
2001年に「卓越した技術者/現代の名工」に選ばれた桃原正男氏が社長に就任したのは、1972年の沖縄領土返還から2年が経った1974年。返還後もアメリカからの注文が多くを占め、アメリカ人の生活様式に合ったアメリカ人好みの商品が作られていました。年月とともに本土からの注文も増え、桃原氏が亡くなった今も、この沖縄で最も歴史あるガラス工房である奥原硝子製造所の技術を継承し、廃瓶を利用した吹き硝子という技法で、再生ガラス特有の味わいと温かみがあり、素朴な厚みや重みのあるガラスを作り続けています。